自分も生まれる旅 vol.4  服を探して

#2015ふゆ号No.273

vol.4

服を探して

   [文・写真] 有砂山



お産から2ヶ月後、ミチコさんはぽつりと言いました。

「子どもを産んだ日、確かに私は自分の知らない自分に出会ったような気がしたんです。霧が晴れたような感じがしました。でも、今はもう、小さなことで毎日悩む自分です。なんだか情けなくて、どうしたら、あの日の私のように生きられるのかなぁって思うんです」

あの夜の、ホットタオルを握りしめたまま、静かに微笑むミチコさん。瞳が、どこまでも透き通っていました。比喩ではなく、本当に光を、なにもかも突き抜けていくような光を放っていました。

ヘロヘロでもヘトヘトでもない静かな恍惚が、産んだ人に訪れることがあります。なにかが終わり、なにかが始まる、忘れがたい時間です。

どうしたら、あの日のように生きられますか?

子どもを産んだあの日が遠ざかっても遠ざかっても、私も、何度もそう思いました。
そして、ある日、思わず、とある自然療法の先生に質問したのでした。先生はさらりと言いました。

「もう一度、子どもを産むしかないでしょうね」

この誠実な答えに私はうなずいたのだったけれど、でも、どこかで立ち往生してしまったような、そんな気持ちが残りました。誰しも子どもを産まない日がいつか来るけれど、その時はもう「あの日の私」をノスタルジックに思い出すしかないのかしら?

この話を助産師まりこさんにすると、まりこさんは言いました。

「あの日の私って、つまり本来の私ってことよね? 自分をじっと見つめた人は、裸のままの魂を持った赤ちゃんを産む時、一瞬かもしれないけれど、裸のまんまの自分になれるのよ。誰でも、いつのまにか親の価値観だとか社会で求められている役割だとか、本来の自分じゃない自分も受け入れて生きているでしょ? でも、そういうの全部とっぱらった自分に会える。そのまま裸だとヒリヒリしちゃうから服を着るけれど、裸だった時の気持ちよさを思い出しながら、今までとは違ったやり方で服を着て生きることができるのよ」

ミチコさんは、きっと旅の途中です。「素っ裸」にしっくりくる服を探して、もんもんとさすらっている。情けなくなる日もあるけれど、見知らぬ場所は自分の心の中にもあるのなら、もんもんと右往左往するのは、とびっきりの旅なのです。心配はご無用、行き先は「あの日の私」がそっと教えてくれるでしょう。






立ち会わせてくださって、ありがとうございます。
Special thanks to ミチコさん まんまる助産院
#お産の写真は、会報・お話し会等でご覧いただけます。
有砂山 (ゆささん):

産むことの味わいについて、
私感を写真と文で綴る試み「自分も生まれる旅」を行う。
共著『お産を楽しむ本 どこで産む人でも知っておきたい野性のみがき方』(2014 農文協)。
一児の母。

そもそも生まれるとか死ぬということは
あけっぴろげなものじゃなく、
それぞれの日常の中で、
その気配をしみじみと抱きしめるようなものだと
思うんですけれど、
でも、いつのまにか
生は死よりも遠くなってしまったような気がするんです。
もし、本当に遠く遠くなって、
なんにも触れることができなくなってしまったら…、
と思うと無性にさびしくなるのは、
母の子宮が
すべての人の地上で最初のふるさとだからでしょうか。

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