#2016はる号No.274
vol.5
しっぽの記憶
[文・写真] 有砂山

サトコさんはかすかなうめき声をあげると、巣にこもるように助産院のトイレに入りました。
お尻にしっぽが生えているのではないか?
と思いたくなるような、そんな声です。
すると、見守っていた助産師まりこさんも、お尻にしっぽが生えているのではないか? と思いたくなるような、サバンナを吹き抜けてゆく風の行方を追うような目であたりをじっと見つめた後、草陰に息をひそめる四つ足動物のようにトイレのドアの前でうずくまりました。そして時々、とても動物的な仕草でドアをノックして、サトコさんの様子を確かめるのでした。
二人そろって、本当にしっぽが生えてしまったのか? いえ、そんなことはあるわけもないのですが…。
お母さんの子宮に宿った私たちは、十月十日、ものすごいスピードで進化しながら、結局しっぽを持たない生きものとしてこの世に誕生したけれど、それでも神様は、私たちにしっぽの記憶を残してくれたのでしょうか。
なんだか、サトコさんの声は、赤ちゃんとの合い言葉だったように、それから、お産は淡々と進んでいきました。
私は、ホッとしました。
サトコさんは、助産師です。
ある時、まりこさんは言いました。
「助産師だからって、安産とは限らないのよ。誰でも産む時は、仕事もなにもかも、いろんなことを忘れて、他の誰でもない、私というたった一人の生きものにならないと赤ちゃんに会えないのに、助産師は仕事柄、気持ちがこんがらがっちゃうことがあるのよね」
今どきの私たちは、誰もがこんがらがっているかもしれません。
ふと、私は、子どものころ「哺乳類」と書く時に思い浮かべたのは、友達や自分じゃなくて、猫とかクジラとか遠い遠いサバンナの動物だったことを思い出しました。おっぱいを吸って生き始めたことをすっかり忘れて大人になったのでした。それは、とてもとても大きな忘れものだったのに、子どもを産むまで、どこかの公園に忘れたお気に入りの帽子のことのほうを気にしていました。
生まれたばかりの小さな彼女は、そんなことはおかまいなしに、ただひたすらサトコさんのおっぱいを吸っています。
私はなんとなく、サトコさんが毎日のように歩いていた遊歩道を少し歩いてみたくなりました。吹き抜けてゆく風の行方を追えば、忘れもののしっぽも、揺れるかもしれません。
立ち会わせてくださって、ありがとうございます。
Special thanks to サトコさん まんまる助産院
#お産の写真は、会報・お話し会等でご覧いただけます。
有砂山 (ゆささん):
産むことの味わいについて、
私感を写真と文で綴る試み「自分も生まれる旅」を行う。
共著『お産を楽しむ本 どこで産む人でも知っておきたい野性のみがき方』(2014 農文協)。
一児の母。
そもそも生まれるとか死ぬということは
あけっぴろげなものじゃなく、
それぞれの日常の中で、
その気配をしみじみと抱きしめるようなものだと
思うんですけれど、
でも、いつのまにか
生は死よりも遠くなってしまったような気がするんです。
もし、本当に遠く遠くなって、
なんにも触れることができなくなってしまったら…、
と思うと無性にさびしくなるのは、
母の子宮が
すべての人の地上で最初のふるさとだからでしょうか。