子どもたちに未来はあるか ~真弓定夫先生に聞く、震災と原発事故後のこと~

●はじめに

3月11日に起こった大地震の直後から、
福島第一原発を発端とする複数の原子炉で
次々と明るみになったメルトダウンへの危機
を知るにつれて、私はこの事態を前にして
小児科医・真弓定夫はどんな感想を抱いて
いるのかを知りたいと思いました。
私たち子どもを持つ親に、先生がどんな提言を
して下さるのかを聞きたくて会いに行きました。

真弓先生とのおつきあいは、私の二人の
子どものかかりつけの小児科医として、
十五年近いおつきあいがあります。

最近では自然育児友の会が発行する『ナチュラル
マザリング』の創刊号から3号にかけて、私は
「小児科医真弓定夫の肖像」と題した文章を
書かせていただきました。ご興味のある方は
『ナチュラルマザリング』No.1, No.2, No3も合わせてお読み下さい。


今回報告する文章は、後日、加筆・訂正をした上で、
自然育児友の会・会報の次号なつ号に掲載する予定です。

十分な推敲のないままの下書きですが、
この危機的な状況におかれたみなさんの
生きる知恵や指針として、わずかでも
お役になればと思い、未完成のままの
原稿をアップさせていただきます。

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地震大国日本においても、また世界の歴史に
おいても稀な、未曾有の大地震と津波による被害が
起きた2011年3月11日。

最初に真弓先生にお会いする約束をした3月15日は、
交通機関がまだ混乱したままで私は出かけられず、
地震から1週間後の18日(金)にようやく
お会いすることができました。


吉祥寺駅北口からサンロードのアーケード街を
突っ切って、通い慣れた小さなビルの階段を登り、
二階にある真弓小児科医院を訪れました。

ここから、当日真弓先生にうかがった話を
レポートします。



関 良一
(元テレビ番組制作者。現在は自主グループ
「親子山学校」http://oyakoyama.jimdo.com/ を主宰)

●子どもたちに未来はあるか
~真弓定夫先生に聞く、震災と原発事故後のこと~

午後1時。
真弓先生を訪ねました。
「お昼はまだですか?一緒に食べましょう」

先生がいきつけのお昼を出す居酒屋は
臨時休業で、かわりに近くの古い雑居ビルに
ある喫茶店に入りました。

昭和50年代に建てられたその雑居ビルは
五階建てですが、老朽化や不況のせいも
あってか、三階から五階のフロアには一軒の
テナントも入っていません。
一階のゲームセンターと二階に喫茶店がある
だけです。

壁に貼られた紙には500円台から
600円台の食事メニューが手書きの文字で
書かれています。吉祥寺でも安い値段です。

私が一番安そうなドライカレーを頼むと、
真弓先生もそれにならって「ドライカレーを二つ。
それから珈琲も二つお願いします」とマスターに
注文しました。

食事をとりながら私は質問を始めました。

最初に先生に聞きたいことは、大震災も
さることながら、その直後に起こった
福島第一原発の冷却装置が制御不能
に陥ったことから始まった放射能漏れの緊急事態を
どのように受け止めているかでした。
むろん、先生は地震の研究者ではありませんし、
原子力の研究者や技術者でもありません。
一人の小児科医です。

私は「今度の事故で、日本人の多くが
原発は二度とごめんだ、原発停止や廃止の
方向にシフトするのでは」
と語気を強めて尋ねました。

先生はこれに同調することもなく、
静かにこう答えました。

「相手(東電や国)を責めるのは簡単です。
今は自分を責めなければいけません」

自分とは、原子力政策に対して大きな
疑問も反対も持たずに、何十年と
その恩恵を享受してきた私たちを指しています。


「食べ物や水の浪費もさることながら、
それ以上に電力を無駄遣いしてきたことを
自覚しなければいけません」

私たちが電力に依存する生活や社会を
受け入れてきたことの方が、放射能や
放射性物質の恐怖を語るよりも前に、
振り返る必要があるということです。


電気に頼ってきた私たちの暮らしに触れる前に、
私たちはなぜこの狭い日本に54基もの原子力
発電所を建設することになったのか、推進する側
と反対する側との考え方も含めて、その経緯や
歴史を知っておく必要があります。

しかし、それは分厚い本が数冊くらい
必要になるほどの膨大な話になります。
私にはまだそれをはじめるだけの知識も
勉強も足りません。

ここでは、真弓先生から渡された資料と
私の乏しい知識の中からいくつかの客観的
データだけを列記してみます。

1945年(昭和20年)の敗戦から9年後の
1954年(昭和29年)に時計の針を戻してみます・・・。


●1954年2月27日
日本学術会議 第39委員会において
「原子力に関するシンポジウム」を開催。
これは日本が原子力エネルギーを平和目的に
限って調査・研究・利用するための科学者を集めた
シンポジウムであった。

●1954年3月2日(上記のシンポジウムから数日後)
改進党(野党)の中曽根康弘、斉藤憲三議員らから
「修正予算案」のかたちで「原子炉建設予算」が
衆議院に提出された。なぜか満足な議論もないまま
三日後の3月5日に可決。これによって日本の
原子炉設置が決定された。

予算案の内容:

原子炉建設費 二億三千五百万円
ウラン資源調査費 一千五百万円
チタン・ゲルマニウムなどの資源開発費 三千万円
資料費 二千万円
合計三億円


●中曽根康弘代議士(当時)の言葉

「学術会議においては研究開発にむしろ
否定的な形勢がつよかったようであった。
私はその状況をよく調べて、もはやこの
段階にいたったならば、政治の力によって
突破する以外に、日本の原子力問題を
解決する方法はないと直感した」



戦後間もない日本が、平和目的とはいえ
原子力発電所が急速に建設された背景には、
米ソ冷戦下にあったアメリカの存在があった
のは言うまでもありません。

アメリカが1941年から始めた原子力研究
(マンハッタン計画)の主目的は、核兵器などの
軍事目的でした。その最初の実戦利用が、
1945年8月の広島と長崎に投下された
原子爆弾です。

核兵器においてソ連よりも優位にあった
米国でしたが、それもすぐに逆転します。
そこで米国はそれまで手をつけていなかった
原子力の平和利用分野(原発建設)で
ソ連との競争に打って出ます。

米国の配下にあった日本にも「平和利用」を
謳って原子力発電所の建設を強力に促します。
その急先鋒にいた日本の政治家が中曽根康弘です。

少し時間を飛ばします。
今、問題になっている福島原発の歴史を
少しだけ記しておきます。


●1971年(昭和46年)3月26日
福島第一原子力発電所1号機の営業運転を開始。
以後、2号機、3号機と運転が始まり、
1979年(昭和54年)10月24日6号機の営業運転に至る。


福島第一原発の1号機運転からちょうど40年、
6号機からでも32年の歳月が過ぎようとしています。
福島原発が出来たとき、その耐用年数は
十年と言われていたそうです。だから言ったこっちゃ
ないという話もありますが、そのことを裏付ける
材料は私にはありませんので、耐用年数の問題に
ついては触れません。


真弓先生のお話に戻しましょう。

「原発のことを問うのではなく、
私は電気を使うものすべてを見直すいいチャンス
だと思っています」

真弓先生が言う電気を使うものとは、もちろん
家庭の中にある多くの家電製品を指しています。
テレビ、冷蔵庫、エアコン、洗濯機、炊飯器、
掃除機、電子レンジ、ドライヤー、電気毛布、
電気こたつ、照明器具、パソコン、固定電話、
携帯電話・・・などなど。
これらの電気製品に囲まれた生活を思い浮かべて下さい。

「電気製品ごとに消費電力と出力があります。
その電気製品と人との距離を考え、
その電気商品から発する電磁波を
(一生の間に)浴びる時間を考えてみれば、
家の中にいても危険だということです」

「電磁波を出すような電化製品は使わない。
持たない。買うとしたらなるべく小さなものに
しなければなりません」

いま行われている「計画停電」について、
真弓先生はこうおっしゃっていました。

「停電とは電力会社がコントロールする
ものです。停電など恐れる必要は
ありません。大事なことは私たちがふだんから
電気を減らす生活をすること。節電を
心がければいいのです」

つまり、日本人がいっせいに節電する生活と
社会を選べば、電力会社の都合でしかない停電
など問題ではないということです。

「一家の電気代と医療費は並行すると言います。
私の家では毎月の電気代はもうずっと二千円台
ですよ。高いときでも三千円台まで。
先生の所(診療所)は暗いですねとよく
言われます。そうじゃないですよ、あなたの
家が明るすぎるんですよ、と言っています」

私は先生のご自宅を訪ねたことがありますが、
先生の家にもテレビがあり、朝の食事時は
テレビでニュースや天気予報などを見て
いたと思います。その真弓先生も、
「テレビはもう見ないことにしました」
ときっぱりと宣言されました。

情報はどうやって得てゆくのですか?
と尋ねました。

「自分で考えることでしょうね。
マスコミに乗せられないことでしょう」

被災地以外に住む人々がお米や保存食、
ガソリンなどを買いあさっていることについて。
利己的な行為をいさめながらも、

「強いて買うとしたら水でしょうか。
水だけあれば人間は五日間は頑張れます」


「人間以外のほかの動物がどういう風に
生活しているのかを見ればわかることでしょ。
動物とは身近にいるペットや動物園に
いるような動物なんかではなく、野生に生きている
動物のことです。


私たち人間が免疫力を高めるためには、
限りなく動物としての生き方をすればいいのです。
健康を保つために、お金なんかかける必要は
ないんですよ」

ひとしきり話が終わり、私はふと天井に近い
壁に貼られた一枚のポスターに目を
向けました。それは放射能の危険性を訴えた
ポスターでした。

「このポスターは?」


「それはここを開業した当初から
貼っているものですよ」

真弓先生はごく当たり前のことのように、
自然なそぶりでおっしゃいました。

開業時から壁に貼られているポスター
おむつをした乳幼児の男の子がポスター中央に
あり、その周りに「放射能は微量でも危険です!!」
「年齢が低いほど放射能の危険が大きくなります」
などの言葉が大きく掲げられています。

真弓先生は開業医を始められた当初から、
こうした原子力による危険性を重視し、
ことあるごとに警鐘を鳴らしてきました。

私の手元には1986年の8月5日に「教育報道新聞」
(現在は廃刊)の「論壇」欄に掲載された
真弓定夫先生の記事があります。

1986年という年をご存知ない方のために
付けくわえておきますと、ソビエト連邦(現在の
ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所で起きた
史上最悪の原子力事故が起きたのが、この年の
4月26日です。

炉心溶融(メルトダウン)を起こした4号炉から
飛び散った放射性物質は、広島に投下された
原子爆弾に換算して約500発分の投下に相当し、
放射性物質の量に換算すると400倍に相当する
と言われています。約10トン分の放射性物質
がソ連はもとよりヨーロッパや世界に飛び散った
のです。
(数値はIAEA=国際原子力機関の報告による)

チェルノブイリ原発事故からしばらくして、
真弓先生のもとに一通の国際郵便が届きました。

その手紙に書かれている一節を引用します。

『事故以来、可能な限り数値を追っているのですが、
あまりの値の高さに絶句することが度々です。
すべてが汚染されてしまいました。
水も土も植物も動物も、そしてもちろん人間も。

事故以来、乳製品も野菜も一切口にしていません。
缶詰だの、日本食品を売っている店で買った
乾燥食品だのばかり食べて生きています。
空気の汚染もすさまじかったため、
家の中に閉じこもっていました。
雨が降ると背筋がゾッとします。
芝生にももう座れません。
土壌汚染がひどく、子どもたちの
遊び場も閉鎖されたり、スポーツ大会が
とりやめになったりしました。』

この手紙は、チェルノブイリから約二千キロも
離れたベルリン(当時は東ドイツ)に住んで
いた方からの報告です。

真弓先生は、その知人から送られてきた手紙
を引用しながら、チェルノブイリで起きた原発事故
の恐ろしさを強く訴えていました。

そのチェルノブイリから25年目に起きた今回の
日本の原発事故を、私たちはどのように受け止め、
学ぶことができるのか・・・。

真弓先生がはじめにおっしゃったように、
電力会社や政治家を責めるだけではなく、
私たち一人一人が勇気を持ってこれまでの
生活をぬぐい捨ててゆくことから始めなければ
何も解決はしないのだと思います。

今この国の原子炉が抱えている恐怖が、
たとえ片付いたとしても、それで忘れることなく、
私たち一人一人が議論し、運動を起こさなければ
ならないはずです。

それがあの巨大地震と津波で亡くなった多くの
同胞への手向けでしょうし、生き残った子どもたちの
未来に託す導(しるべ)とならなければなりません。

私が好きな先生の話に、「見えるものと見えないもの」
についての話があります。その日は、こんな話を
してくれました。

「自分が死ぬときは、目に見えるものを
限りなくゼロに近づけておこうと思っています。

目に見えるものとは、お金であったりモノで
あったり、そういうもののことですよ」



「私が言っていることは医者として
言ってることではないんですよ。

昔の日本人、おじいちゃんやおばあちゃん
が当たり前のようにやっていたことです。

それが途切れては困るから代弁している
だけです」

三月で真弓先生は八十歳になりました。

「先生、まだまだ現役で医者をつづけるんですか?」
私は尋ねました。

「もちろんですよ」

笑顔で答えが帰ってきました。


取材・文 関 良一


小児科医・真弓定夫は、3.11の地震当時も診療所にいた。
「散乱した本の整理が大変でした」地震があった日に訪れた親子の
患者は3組。しかし、翌日にはまたいつもの数が訪れたという。



※トップに掲げた写真も、真弓先生の診療所に貼られていたポスター。
チェルノブイリ原発事故のあと、放射能汚染で
奇形化した植物が各地で見られるようになった。
写真中央にあるものは巨大な茎をもつ奇形タンポポである。